世界が語る零戦

「侵略の世界史」を転換させた零戦の真実

吉本 貞昭 著 2012.11.28 発行
ISBN 978-4-89295-967-7 C0021 四六上製 320ページ 本体 1800円


15世紀以来の西欧列強による植民地支配の歴史に終止符を打ち、
アジア諸国を解放して独立に導いた大東亜戦争。
この「侵略の世界史」の大転換に、零戦が果たした「世界史的意義」とは何か。
従来の定説を覆し、新たな視点で描いた「零戦論」!


「はじめに」より抜粋

世界が語る零戦

本書は、支那事変から大東亜戦争にかけて、日本海軍航空隊の主力戦闘機として戦い抜いた零戦の誕生と、その栄光の記録である。
昭和15年7月24日に誕生した零戦は、その驚異的な戦闘能力から連合国の搭乗員から“ゼロ・ファイター”と恐れられた。
そして今日においても、世界各国の航空博物館などで約30機が保存され、国の内外で語り継がれているような戦闘機は、世界で零戦をおいて他にはないであろう。
このため戦後の日本には、零戦を描いた書物や映画はおびただしいが、零戦に対して偏見を持つことなく、その真価を正しく評価しているものはあまりにも少ないし、中には作り話が定説となっているものさえある。
その理由は、わが国の歴史教科書を見てもわかるように、「執筆者たちに共通した、かつ一貫した歴史観が乏しい」からだと思われる。
言い換えれば、戦後、大東亜戦争の歴史的意義が不当にも、過小評価されていることにあると思う。では、大東亜戦争とは、いかなる戦争であったのだろうか。
旧社会党委員長の村山富市元首相は平成7年8月15日に、「大東亜戦争は、アジアに対する侵略行為だった」とする談話を発表したが、この戦争の誘因の一つは、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が回想記で指摘しているように、「日本がルーズベルト大統領による経済制裁をおそれたことにあった」ことは明らかである。
昭和16年12月8日、日本は、自存自衛と大東亜共栄圏の理想を実現するべく、日本を戦争に追い込んだ西欧列強に立ち向かったが、これは13世紀末に「元寇」がアジアと西欧列強に与えた衝撃とは、質を異にする衝撃をもたらしたのである。
後に、フランス第五共和政の初代大統領となるドゴール将軍が日記の中で、「シンガポールの陥落は、白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する」と記しているように、わが日本軍による西欧列強の植民地支配の崩壊は、白人植民地主義の長い歴史の終わりを告げる劇的な晩鐘であった。
この大東亜戦争で大活躍した零戦が誕生するのは昭和12年7月7日に勃発した支那事変のときであったが、その後、中国側によって停戦協定が破られ、次第に戦乱の渦中へと日本は巻き込まれていくのである。
日本海軍の陸攻隊は、中国の奥地へ逃げ込む敵を追って爆撃を繰り返すが、航続距離の短い九六式艦戦では掩護ができないため、陸攻隊は敵機に撃墜されて大損害をこうむっていた。
やがて、零戦が試作を終えて前線に配備されると、昭和15年9月13日に陸攻隊とともに長躯重慶を空襲し、空中退避中のソ連製の戦闘機、イ15とイ16の27機を全機撃墜して初戦果をあげるが、零戦隊は昭和16年8月末をもって、台湾や日本に引き揚げ、来たるべき、ハワイの真珠湾攻撃に備えていくのである。 英国の航空記者マーチン・ケイディンが、その著書で、
「太平洋とアジアにおける第二次世界大戦は、日本軍の零戦の“つばさ”の下で」始まるのである。「この戦争の第一日にアメリカは、太平洋戦域における全航空兵力の3分の2をうしなった。
日本海軍のパールハーバー奇襲は、フィリピンにたいする増援基地としてのハワイの地位を、抹殺することに成功した。米太平洋艦隊は、その機能をうしない、航空兵力も壊滅的打撃をうけた。
日本に、おどろくべき成功をもたらした巨大な日本軍の全戦力のなかで、一つだけとりあげるとすれば、零戦ほど重要なものはなかった。
実際、日本のカケは、一つの前提にかかっていたのである。すなわち、三菱がつくった流線形の新しい戦闘機、零戦が、反撃してくる連合軍のどんな飛行機でも、迅速に、確実に打ち負かすことができるということを、あてにしていたのだ。
もし日本軍が零戦のすすむところ、つねに制空権のカサをつくることができるならば、広大な戦線での攻撃成功は、まったく疑いの余地はないであろう。零戦は、期待されたことを、いやそれ以上のことをやってのけた」
と述べているように、中国戦線で華々しいデビューを飾った零戦は昭和16年12月8日に、米太平洋艦隊の基地、ハワイ・オアフ島の真珠湾を攻撃すると同時に、台湾からも出撃して、フィリピンの米軍基地を攻撃し、世界初の長距離渡洋爆撃の掩護に成功するのである。
さらに零戦は、「西はインド洋の東半、北はアリューシャン、南はオーストラリアに至る広大な舞台を制圧し、緒戦の勝利をひとり占め」するのであるが、これを可能にさせたのは、元零戦搭乗員の坂井三郎氏が、「私たち零戦パイロットが九六艦戦から零戦に乗り換えたとき、もっとも心強く感じたのは、武装や空戦性能よりも、これまでの二倍以上という長大な航続力であった」と述べているように、零戦には信じられないような航続能力があったからである。
だからこそ、わが日本軍は、後にアジア諸国を西欧列強の植民地支配から解放して、アジア諸国を独立に導いていくことができたのである。
一般に、「大東亜戦争とは日本海軍機の盛衰によって彩られた戦史である」と言われているが、元零戦搭乗員で、戦記作家の豊田穣氏(元海軍中尉)も、次のごとく零戦の性能を讃えているように、まさに「大東亜戦争とは零戦の性能に依存して戦われた戦争である」と言っても過言ではないだろう。
「零戦は、太平洋戦争の全期を通じて大きな働きをしているが、そのなかでもっとも特筆されてよいと思われるのは、ソロモンの戦闘で、連日のように行われた航空決戦である。
この戦闘で、零戦は、あるときは一式陸攻や九九艦爆の掩護に、あるときは、戦闘機だけで制空戦に、ラバウルからガダルカナルまで、往復1500マイル、8時間という長時間飛行を増槽のバックアップで続行したのである。戦闘機でありながら攻撃機より長い航続距離をもち、しかも、向こうで空戦をして帰ってくるのである。これは、まさに史上最高の傑作機であったといっても差し支えあるまい」
本書では、従来の技術を中心とする「零戦論」とは違って、大東亜戦争で、日本軍が西欧列強による「侵略の世界史」を転換させる上で、零戦がどのような役割を果たしたのかを検証し、また零戦が残した技術的、世界史的な遺産が戦後の日本と世界で、どのように生かされているのかを検証している。
このため、著者は、本書の中で日本と世界の戦術思想に大きな影響を与えるとともに、無敵の名をほしいままにした零戦が、単に空戦性能に優れた戦闘機ではなく、日本軍が西欧列強による「侵略の世界史」を転換させる上で、大きな役割を果たした戦闘機であることを論証したが、零戦の設計主任である堀越二郎氏が、以下で述べているように、決して零戦は一夜にして誕生したものではないのである。
「ハワイ攻撃機動部隊が、1941年〔昭和16年〕12月にパールハーバーを奇襲していらい、世界航空界での“解かれざるナゾ”の一つは、日本のある軍用機の出現であった。太平洋戦争のあいだ日本にいたわれわれにも、連合軍側の零戦にかんする種々の情報がはいってきた。これらと、戦後あきらかになったこととで、この戦闘機の出現が、米国はじめ連合軍側を完全におどろかせたことを確認した」
だが、「零戦は奇跡によって生まれたものではなく、むしろ血のでるような研究の産物である。この研究あってこそ、零戦は1940年〔昭和15年〕にはじめて実戦に使用されてから数年間も、敵機に絶対的な優位をかちえたのであった。これをたんなるマネとするのは航空機設計についての無知をしめすものにすぎない」
本書の第一部の第二章でも述べているように、「日本の航空工業界が、多年にわたって外国の設計と、その技術に大きく依存していたことは事実である。この状態は、日本が産業革命をおくれてうけいれたことから必要となったことで」、日本の技術者たちは、「これをできるだけ早く是正しようと努力した」 また「われわれの工業の多くの重要な部門が、いぜんとして外国に依存してはいたが、航空機とその発動機の設計製作、飛行技術、空戦能力では、すでに独自のものをもっていた」ことも事実である。
例えば、「日本は昭和15年までに、日本独自の設計による小型、中型の航空機と、空冷式発動機では、世界で最高の水準に」達していたが、「この独自の設計への移行は一夜にしてなされたものではなかった。機体や発動機の一部の部品、武装の一部、それに艤装器材の大部分は、外国の技術の進歩においつけない、ということは認めていた。
日本の軍用機の全部が、外国特許を使用した部品や、外国の設計をまねてつくられた計器などを装備していたという事実は否定できない。しかし、機体や発動機の設計に、あるいは飛行技術や空戦技法に新境地をひらいた独創性も、またひとしく、まちがいのない事実である」
昭和11年から翌年までに、「日本の航空工業は、とくに海軍にかんしては、あきらかに自立した。日本海軍航空の発展は、じつにめざましく、世界の海軍の先頭にたっていた」のである。
また日本海軍航空隊は、「航空戦の歴史ではじめて、長距離戦闘機で、爆撃機を援護して、敵地上空を制圧することをこころみた」が、これは昭和12年の「支那事変のあいだにおこなわれたことで、このようなやり方が必要であると世界列強がみとめる、はるか以前のことであった」
本書では、このように日本と世界の戦術思想を一変させ、日本軍が西欧列強による「侵略の世界史」を転換させる上で、大きな役割を果たした零戦は、決して外国機の模倣によって生まれた戦闘機でないことも論証している。
だからこそ、零戦は、戦後68年を経た「今日になっても、日本ばかりでなく広く世界の人々から賞賛と驚嘆の言葉を寄せられている」のである。
さらに本書では、零戦の長所よりも短所(防御が脆弱である、人命を軽視している)を力説する論調に対して、あらゆる証拠をもって反論を展開している。
ところで、ライト兄弟がアメリカのノースカロライナ州キティホークの砂丘の上で、人類初の有人動力飛行に成功したのは、ちょうど今から110年前のことであった。
人類初の飛行機が誕生した翌年から、日本は、日露戦争、第一次大戦、満州事変、支那事変、そして大東亜戦争へと戦乱の渦中に巻き込まれていくのであるが、特に日本が行った大東亜戦争は、英国の歴史家H.G.ウェルズが、その著書で
「この大戦は西欧の植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の基礎を築いた」
と述べているように、人種平等の世界形成に大きな影響を与えたことを日本人は忘れてはならないし、また零戦を造った日本の技術力が、そのことに大きな影響を与えていることに対して、日本人は、もっと強い自信と誇りを持つべきなのである。零戦は、まさに「世界遺産」にふさわしい戦闘機と言っていいだろう。
今年の四月、堀越技師の出身地である群馬県藤岡市で戦後68年ぶりに、零戦の後継機である幻の戦闘機「烈風」の図面の一部が発見されて衆目を集めている。
また今年は、零戦の書物が多く刊行され、埼玉県の所沢航空発祥記念館では、17年ぶりに飛行可能な零戦が公開されるなど、いつになく零戦が脚光を浴びる年になっているようである。
このように、日本においても、73年前に誕生した零戦が多くの人々から愛され続けるのは、零戦が単なる技術の結晶ではなく、日本人の自信と誇りを取り戻してくれる「名機」だからであろう。 ここに、謹んで本書を先の大戦で散華した全ての零戦搭乗員に捧げたいと思う次第である。
本書が、頽廃した日本を救う一助となることを祈念して。

平成25年7月24日(零戦誕生の日に)

著者記す  




目次


はじめに


第一部 日本海軍航空の黎明と零戦の誕生

 第一章 日本海軍航空の黎明からロンドン軍縮条約の締結まで
   日本海軍航空の黎明
   日本海軍航空隊の誕生
   ワシントン海軍軍縮条約の締結
   ロンドン軍縮条約の締結

 第二章 外国機の導入から九六式艦戦誕生まで
   外国機から国産戦闘機へ
   十年式艦上戦闘機の誕生
   三式艦上戦闘機の誕生
   国産機による日本海軍初の撃墜
   九〇式艦上戦闘機の誕生
   六試艦上複座戦闘機、八試艦上複座戦闘機の不採用
   七試艦上戦闘機の不採用
   九五式艦上戦闘機の誕生
   零戦の先駆、「九六式艦上戦闘機」その誕生の背景
   傑作機「九六式艦上戦闘機」の誕生

 第三章 支那事変勃発から零戦誕生まで
   支那事変の勃発と海軍航空隊の活躍
   九六式艦戦の初陣
   九六式艦戦の最期8
   名機「零戦」その誕生の背景
   十二試艦戦はいかに開発されたのか
   試験飛行の開始
   不審な振動
   もう一つの問題点
   奥山操縦士の殉職
   十二試艦戦から零式艦上戦闘機へ
   零戦の出現で重慶上空に敵機なし
   猛威をふるう零戦
   支那事変での零戦の輝かしい戦果


第二部 封印された大東亜戦争と零戦の真実

 第四章 「侵略の世界史」を転換させた大東亜戦争と零戦
   「侵略の世界史」を転換させた大東亜戦争の真実
   封印された真珠湾攻撃の真実
   東南アジアの民族独立運動に火をつけた真珠湾攻撃
   全ての被圧迫民族に影響を与えた真珠湾攻撃
   真珠湾攻撃計画に大きな影響を与えた零戦1
   南方作戦で真価を発揮した零戦
   零戦搭乗員たちの血みどろな燃費との戦い
   大東亜戦争で零戦が果たした戦略的な役割
   大東亜戦争で零戦があげた戦果
   大東亜戦争で零戦が果たした世界史的な意義
   零戦が一変させた海軍の戦術思想
   ついに暴かれた零戦の秘密
   米軍が採用した対零戦戦法と新型戦闘機
   零戦が登場したとき、飛行機の無防備は世界の常識だった
   零戦はなぜ大戦の後期から負けだしたのか
   零戦搭乗員はなぜ落下傘を使わなかったのか
   零戦を中心とする特攻攻撃の戦果は甚大だった

 第五章 碧い眼が見たゼロ・ファイター
   リンドン・B・ジョンソン米大統領(元海軍予備少佐・大統領査察官)
   アンダーソン海軍大将(米海軍作戦部長)
   クレア・L・シェンノート陸軍少将(アメリカ義勇兵部隊指揮官)
   サミュエル・E・モリソン博士(ハーバード大学教授、海軍少将)
   フランシス・R・ロイヤル空軍大佐(米第五空軍作戦局長)
   ジョン・N・ユーバンク米空軍准将(米空軍戦略空軍司令部作戦部長補佐代理)
   ジミー・サッチ海軍少佐(米空母「エンタープライズ」第六戦闘飛行隊長)
   ジョン・M・フォスター米海兵隊大尉(第二二二海兵隊戦闘飛行隊)
   アイラ・C・ケプフォード米海軍中尉(米海軍第十七戦闘機隊)
   W・D・モンド英空軍中尉
   ウイリァム・ポール(オーストラリア空軍のパイロット)
   グレゴリー・リッチモンド・ボード(英国空軍第四十三中隊)
   バズ・ワグナー(米陸軍航空隊第六十七戦闘中隊)
   ハーバート・リンゴード(米軍のテスト・パイロット)
   マーチン・ケーディン(米国の航空記者)
   ロバート・C・ミケシュ(米スミソニアン航空宇宙博物館館長)
   J・W・フォーザード(英国のホーカー航空機会社の計画設計主任)
   ウィリアム・グリーン(英国の航空評論家)
   ブライアン三世(アメリカ人)
   デヴィット・A・アンダートン(米国の『エヴィエーション・ウィーク』誌の技術記者兼編集者)
   米陸軍航空戦史
   米海兵隊航空戦史
   米陸軍航空隊第六十七戦闘中隊の記録
   『動乱の十年』
   サタディ・イブニング・ポスト紙
   ニューヨーク・タイムズ紙
   ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙
   リッチモンド・ニューズ・リーダー誌
   サターデュー・オブ・リテラチュラ誌
   アトランタ・ジャーナル・アンド・コンスティチューション誌
   ジャクソン・クラリオン・レジャー紙
   ラレイ・ニューズ・アンド・オブザーバー紙
   ロング・ビーチ・インデペンデント・プレス紙
   キング・スポート・タイムズ・ニューズ紙
   タルサ・ワールド紙
   サンフランシスコ・エギザミナー紙

 第六章 日本と世界に生きる零戦の遺産
   零戦にモデルはない
   零戦の独創性とは何か
   零戦を生みだした日本人の独創性
   九六式艦戦の独創性を受け継いだ零戦
   零戦とは何だったのか
   「夢の超特急」東海道新幹線に受け継がれた零戦の技術
   零戦が世界に残した歴史的な遺産とは何か
   世界遺産としての零戦


おわりに

引用・参考文献一覧