『歴史街道』2013年10月号
この著者に注目! 吉本貞昭 東京裁判を「正しく」批判する契機に
歴史には数多くの「定説」が存在するが、中には、誤ったまま流布されているものも少なくない。戦後68年間、東京裁判の解釈は様々な角度から議論されてきたが、今なおまことしやかに語られるのが、「東京裁判を強行したのはマッカーサー元帥だ」という定説だ。しかし、それは真実ではないことを証明したのが、前著『世界が語る大東亜戦争と東京裁判』を始め、緻密な取材で先の大戦の実態を明らかにし続けている吉本貞昭氏である。
「従来、マッカーサーと東京裁判の関係については、次のように語られてきました。マッカーサーは『極東国際軍事裁判所条例』で再審査権(減刑権)を与えられたにもかかわらず、意図的に権利を行使せず、それどころかA級戦犯7名の処刑を推し進めた、と。
しかし、実際にマッカーサーに与えられた権限は極めて限定的なものであり、彼には裁判を思いのままに動かすことなど不可能でした。むしろ、昭和25年(1950)のトルーマン大統領とのウェーク島会談で『東京裁判は誤りだった』と語っているように、マッカーサーは裁判には開始前から批判的だったにもかかわらず、アメリカ本土に握りつぶされた、というのが実情です」
吉本氏がマッカーサーと東京裁判の関係を調べ始めたのは、昔のある新聞記事がきっかけだったという。
「10年前、昭和26年(1951)5月4日付の北海道新聞夕刊の第一面に『東京裁判は失敗』と題したウェーク島会談の記事を発見しました。しかも調べていくと、この報道は全国・地方紙54社のうち、8割弱にあたる43社が行なっていたことが分かりました。それだけではありません。実は、占領当初から東京裁判を批判した新聞記事もあるのです。当時はGHQの検閲が存在したはずなのに、なぜこのような報道がなされたのか。実は、GHQにはマッカーサーを始め東京裁判に疑問を感じている人物が多く、彼らは必ずしも本国の命令に従って検閲を行なっていなかったのです」
では、なぜマッカーサーは東京裁判に批判的だったのか。そこからは、裁判の本質的な問題点までが見えてくる。
「マッカーサーは本国政府に対して、A級戦犯をあくまでB級戦犯として裁くよう主張しました。A級戦犯とは『平和に対する罪』『人道に対する罪』を問うものですが、この二つは、敗戦後に定められた『事後法』です。彼はこの点を問題視したのです。
マッカーサーの脳裏にはアメリカの南北戦争がありました。彼は、南北戦争で勝利を収めた北軍が南軍に対して『復讐裁判』を行ない、南部が長い間、北部を怨嗟したのを知っていました。もし同じことをやれば、日本も永年にわたりアメリカを恨み続ける。そう考えるからこそ、マッカーサーは東京裁判を批判し続け、問題点を報じる新聞もあえて取り締まらなかったのです」
本書を、先の大戦を振り返るきっかけにして欲しい――。吉本氏は語る。
「日本が明治から昭和前半にかけて戦った戦争は、そのすべてが欧米列強のアジア侵略への対抗でした。しかし、わが国の教科書では、あたかも敵国の立場で歴史を記し、大東亜戦争においては『日本侵略国家説』を唱えています。それでは散って行った英霊に顔向けできないとともに、日本の国家再建はままならないでしょう。マッカーサーの新たな人物像を知っていただくとともに、彼の眼を通して東京裁判を正しく批判し、さらには大東亜戦争をもう一度見直していただければ、それに勝る喜びはありません」